その日は雨が降っていた。

どんよりと低くたれたねずみ色の雲が
僕の頭上に広がっていた。
湿った空気が僕にべっとりとまとわりつき
僕の長靴にも水が入っている。
激しい雨は収まったが
それでもやんでいるのではなく
僕は家路を急いでいた。

家に帰って着替えたら
美紀ちゃんと遊ぶつもりだった。
清掃委員の美紀ちゃんは
今日は委員会の集まりで帰りが遅いので
僕は一人で先に学校を出たのだった。

いつものコンビニの角を曲がる。
ウィンドウをのぞいた僕は思わず手を振った。
店内に圭吾ちゃんの姿があったからだ。

中学の制服をきた圭吾ちゃんは雑誌のコーナーで何かを読んでいたようだ。
僕がガラスをたたくと圭吾ちゃんは少し驚いたような顔をした。
トイレに近いその場所で圭吾ちゃんは少し顔を赤くして
それでも僕を見てにっこり笑ってくれた。

「ありがとうございましたー。」

感情がないけど声だけは大きいコンビニの店員。
お客さんの顔を見ていないのに笑顔だ。
気持ち悪い、と僕は思う。

小さなガムのようなものを買って
圭吾ちゃんは店から出てきた。

「まあちゃん、おかえり」

圭吾ちゃんはそういって僕の手にミントのガムを一枚握らせてくれた。

「買い食い・・・」
「いいじゃない。
僕がいるし」
「そうだね、ありがとう。」

圭吾ちゃんは僕の顔を見てにっこり笑った。

「一緒に帰ろうか。」

雨が小止みになって
僕らは傘をたたんだ。
圭吾ちゃんが僕に右手を差し出して
僕は少し戸惑った。

僕はもう
そんな子供じゃなかったから。

母親とだって手をつながなくなって何年も経っていた。

僕は圭吾ちゃんの手のひらを見た。
日に焼けてごつごつとした感じの大きい手のひらは
とても力強く見える。

僕がぼんやりとしていると
圭吾ちゃんは黙って僕の手を握った。
暖かかった。
だけど僕はやっぱり恥ずかしくて顔を上げられなかったんだ。
自分の心臓の音がどきどきする。
自分の頬が赤くなっているのがわかる。

美紀ちゃんがいつもいる場所に
僕が、いる。

僕は圭吾ちゃんとずっと手をつないでいた。
家が見えても圭吾ちゃんは手を離さず
何もしゃべらなかった。
ただ時々僕の手をぎゅっと握った。

僕らの部屋は二階で
簡単な階段が建物についている。
下に3軒上に3軒。
本当のことを言えばアパートではなく文化住宅というのかもしれなかった。
築後10年以上立っていて壁は薄汚れたベージュのモルタルで
所々ひびが入っている。
あとから強引につけたエアコンの外機は
窓パネルから無理やりパイプを通されていて
外壁に取り付けられて頼りなくさび付いた枠に
情けなさそうに乗っかっていた。
そこでようやく僕らはつないでいた手を離した。

「じゃあ」

そう言いかけて圭吾ちゃんは自分の胸のポケットに手を突っ込んだ。

「あれ?」

つぶれた学生カバンを開けてみる。
ズボンのポケットにも手を入れた。

「どうしたの?」
「・・・ない」

圭吾ちゃんは情けなさそうな笑顔を浮かべた。

「かぎを持ち出すのを忘れた。」
「おばさんは?」
「今日は遅出だからなあ。
美紀が持ってるかも。」
「美紀ちゃんは遅いよ。
委員会だから。
僕んちで、待つ?」
「いいかなあ、まあちゃん。」

圭吾ちゃんや美紀ちゃんがこういう風に僕の部屋にくることは
よくある普通のことだった。
僕はドアを開けた。
決して片付いてはいない部屋だった。

「お邪魔します」

圭吾ちゃんはそういうとカバンを投げ出し
なれた様子でコタツのスイッチを入れた。

「さむかったね」

僕は風呂場で足を洗うと
圭吾ちゃんのいる隣の部屋ですその汚れたズボンをはきかえた。
僕らはテレビをつけて漫画を読んだ。
美紀ちゃんがいなければ僕らは無口で
ふたりはだまってページをめくった。

再び雨が降ってきた。

「笑わせっこをしよう」

そういったのは圭吾ちゃんだった。

・・・意味がよくわからなかった。
僕が返事をしないうちに
圭吾ちゃんはたちあがり
僕の横に入ってきた。
コタツの幅はとても狭くて二人はいるとぎゅうぎゅうで身動きが取れなかった。

「これは遊びだから」

圭吾ちゃんはそういった。
そして彼は突然僕の体を抱きしめたのだった。

「け、圭吾ちゃん?」
「黙って・・・」

圭吾ちゃんの体が僕を飲み込もうとする
圭吾ちゃんの腕が僕の背中に回って
圭吾ちゃんの足が僕に絡まって
圭吾ちゃんの息が僕の首に触れている。
圭吾ちゃんの手のひらが僕をさすりあげ
僕の体をなでまわす。

おかしいよ。

僕は頭が真っ白になった。
僕の体を流れる血の音が
僕の中に響き渡る。

おかしいよ、こんなの。

僕の体は悲鳴を上げる。
変だ、変だと声をあげる。

どうしてこんなことをされるのだろう。
僕にはわからなかった、どうしても。
逃げたいとも正直思った。
だけど僕が逃げたら圭吾ちゃんが
僕を「嫌いになるのでは」とも思った。
僕がされていることはたいしたことじゃなくて
圭吾ちゃんがいうようにただの遊びで
僕がかってに考えすぎているのかも、とも考えた。
わずかな時間にさまざまな思いが頭をめぐったけど
結局僕は
動けなかったんだ。

「じっとしてて」

圭吾ちゃんは繰り返した。
僕は顔に押し付けられた圭吾ちゃんの胸の匂いを黙って嗅いでいたんだ。
だけど
圭吾ちゃんの指が僕のズボンにかかったとき
僕は思わずその手を払いのけた。
怖い、と思った。
僕は圭吾ちゃんの腕を振り解き
必死でコタツから這い出そうとした。
そのとき。
僕の体が持ち上げられた。
圭吾ちゃんの右手が僕の髪の毛をつかんで
僕は畳におでこを激しく打ち付けられたのだ。
僕は頭を両手で抱えて畳の上を転がった。
息が止まって
目の前が本当に暗くなった。
いたいかどうかなんて
わからなかった。

「おとなしくしてなよ」

僕の頭のうえから声がした。

「でないと、もっとひどいことをする。」


窓の外は大雨でガラスに雨粒がばちばちとあたっていた。
室内も薄暗くなっている。
テレビの明かりとコタツのヒーターの赤い灯が
僕の体をぼんやり照らしていた。
圭吾ちゃんがこの部屋を出て行くときに
ロックをはずす音ががちゃりとして
僕は初めて
ドアに鍵をかけられていたことに
気がついた。

僕は仰向けに転がされていて
少し唇を切っていた。
それはたいしたことがない傷なんだけど
その傷が心音とともにずきずきと
いつまでも僕の体内に響いた。
テレビからはなんだか音楽が流れていたけれど
もうそんなことはどうでもよかった。
頭が割れそうに痛いんだけど
それももうどうでもいいことだ。

しばらくたって
ようやくぽろりと涙が出た。
それは一気に流れたのではなく
僕の体の水分が
じわじわとにじみ出たような感じだ。
そしてようやく
僕は
泣いた。
声を出せずに
自分で自分の首を締めながら
もがきながら泣いた。
自分でぼろぼろ涙を流しながら
どうして僕は「今ごろ」泣くんだろう?と考えた。
もっと泣くべき時はあったのだ。

これはただの遊びなんだ。
圭吾ちゃんは何度も言った。
たいしたことじゃない。
そういいながらにっこり笑った。
にっこり笑って
僕を殴った。

ひどいよ
ひどいよ、圭吾ちゃん。


「・・・お母さん。
お母さん。
おかあ・・・さん・・・。」

僕はお母さんを呼んだ。
何度も何度も呼んでみた。
お母さんなんてここにはいないと僕にはわかっていたけれど
他に呼ぶべき相手はいなかったんだ。

お母さんが今ここにいて
僕を抱いてくれて
涙を拭いてくれたらいいなと
僕は勝手に思って泣いた。





だけど夜9時になっても
現実のお母さんは帰ってこなかった。







翌日。
目覚めたらお母さんはいなかった。
僕が寝た後に帰ったらしくて
すでに出勤したあとだった。
僕はコタツで寝たままだ。
朝刊はすでに開かれたあとで
スーパーの広告や分譲マンションのチラシが散らかっていた。
キッチンのテーブルに食パンの袋とベーコンエッグ。
缶コーヒーが3本ほどおいてある。
水色の給食袋が準備してあった。
中にナフキンと箸箱とプラスチックのコップが入っている。

僕はぼんやりと食パンをそのままかじりながら考えた。

今日からどうしたらいいんだろう。

今日圭吾ちゃんにあったら
どうすればいいんだろう。
僕がこのまま黙っていたら
圭吾ちゃんはまた僕を殴るだろう。

そんなのイヤだ。

だけど。
僕がされたことを僕のお母さんに言ったら。
お母さんはおばさんに言うだろう。
本当かどうか確かめるに違いない。
おばさんは悲しむだろうな。
僕が圭吾ちゃんのことを悪く言ったら
悲しいだろう。
僕はおばさんは好きなんだ。
美紀ちゃんと僕を同じように可愛がってくれるし。

それに美紀ちゃんはどうなる?
僕と美紀ちゃんは
友達じゃなくなるんだろうか。
それより圭吾ちゃんが僕にしたことを
話した所で
信じてもらえるんだろうか。
というか
言えない。

美紀ちゃんには言えない。

突然。
コンコン。
ドアをたたく音がして
僕は思わず息をとめた。
足ががくがく震えて
唇がぱりぱりに乾いた。

指一本動かなかった。

同時に僕の背後に
生暖かい肌の感触がぬるぬる走り
僕の腹部に
堅い指の感触がじわじわと迫る。

思い出そうとしていないのに
僕は昨日の行為を追体験する。
ああだった、こうだったと
それはリアルに思い起こされて
僕は自分で自分を追い詰める。

僕はなさけない声で言った。

「・・・誰?」

ドアがガチャガチャと揺さぶられてチェーンが大きな音を立てた。

「誰・・」
「私よ、まあちゃん。
あけなさいよ!」
「・・・美紀ちゃん?」
「そうよ!」

僕がドアをあけると
赤いスポーツバッグを持ったジャンパー姿の美紀ちゃんが立っていた。

「もう学校へ行くでしょう?」
「え?」
「一緒に行こう。」
「僕は・・・」
「まあちゃん
私昨日遊びにきたのにいなかったでしょう?
ひどいわ。」
「・・・何時ごろ?
いつ頃きたの?」」
「5時ごろかなあ。
テレビつけっぱなしなしでどこいってたの?」
「テレビ?」
「そうよ
テレビの音が聞こえていたもん」
「ああ・・テレビ」

テレビの音が大きくて
僕らの声は聞こえなかったのか。
彼女に聞こえてたら大変だったけど。

「今日は学校であそぼうね。
早く着替えて。
まってるからね。」
「うん。」

外は快晴で
本当にいい天気だった。
ニコニコと笑う美紀ちゃんはとても可愛い。
彼女を見て僕は思った。

昨日のことはうそだったのかもしれない。
すんだことは仕方がないじゃないか。
僕が美紀ちゃんと友達でいるためには
それしか方法がないじゃないか。

「じゃあまってて」

僕は新しいシャツに着替えようと奥に入る。
そして鏡の前で下着を脱いだ。

「うわ・・・」

思わず息を呑む僕。
僕の腰のあたりには
大きな青いあざが出来ていた。
広げた手のひらくらいはあるだろう。
さわるとぐりぐり堅くなっている。

覚えがある。
頭を抱えて小さくなった僕を
圭吾ちゃんは何度も蹴ったんだ。
何度も何度も。
あの時。

僕は歯を食いしばった。
美紀ちゃんの前で泣くわけには行かない。

このことはもう忘れよう。
何もなかったように暮らしていこう。
何の気持ちの裏づけもないのに
僕はそう誓ってしまったんだ。











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