それが5年の春休み直前のことだった。
だからもう1年近く前のことだ。

僕は普通に学校にいって普通に暮らしていくつもりだった。

圭吾ちゃんとは一週間ほど会わなかったのだ。
隣に住んでいて毎日顔をあわせていたのに変だったんだけど
矢張り圭吾ちゃんも気まずいのだろう、と考えた。

僕の体は「見える部分は」まったく傷つけられていなかった。
だから僕は誰にも気づかれずにすんだのだ、
僕の受けた被害を。
お母さんの前で服を脱ぐこともないしね。

だけど。

あのあと初めて僕が圭吾ちゃんとあってしまったとき。
美紀ちゃんが一緒だったんだけど
僕は「普通に」やり過ごすつもりだったんだけど
僕の体は
それを拒んでしまったんだ。






その日僕は美紀ちゃんに連れられて彼女の家のドアの前にいた。
新しいゲームカセットを貸してくれるということだったんだ。
家に誰かがいるか、ということは気になっていたんだけど
あえてそれを聞くのも変だ、と思った。
圭吾ちゃんには会いたくはない。
だけど美紀ちゃんの誘いを断るのは不自然だったし
僕は純粋にカセットを借りたかったんだ。

美紀ちゃんは僕の手をひいていた。
暖かいやわらかい手だ。

美紀ちゃんがドアのノブに手をかけると鍵がかかっていて
まだ誰も帰っていないようだった。

「はいんなよ、まあちゃん。」

僕は一瞬と惑ったが
「あの時」以来ずっと食事の誘いを断っていたこともあり
彼女らの家にお邪魔することにした。
美紀ちゃんの家はいつもとおんなじで
ここには僕のお茶碗や湯飲みもある。
歯ブラシや替えのパンツまで置いてある。
美紀ちゃんの両親は市場で八百屋をやっていて
朝も夜も不規則で遅いんだけど
おばさんとおじさんは結構僕らをかまってくれていたんだ。

「これこれ
まあちゃんみてよ。」
「わあ、すごいねー。」

新しいカセットが4つも合った。
新しいゲームはとても絵がよく動いて
スキルが増えていて音声がリアルだった。
おまけに美紀ちゃんは張り切って
僕にいろんな漫画を見せてくれた。


それでも僕は時間を気にし
圭吾ちゃんの帰る時刻が近づくと
用があるからといって席を立ったんだ.

「どうして?
いっしょにごはんを食べてかえればいいじゃない?」
「一寸用事があるんだ。」
「なんでよ、
毎日毎日何の用事なの?」
「ああ・・・まあ
僕もいつまでもここでよばれてばかりじゃ・・・
わるいしね。
それに
僕のお母さんは何もしない人だし。」

それは本当で
僕のお母さんが美紀ちゃんを
僕の誕生日なんかにもよんだことが一度もなかったんだ。
逆に僕が美紀ちゃんのおうちで祝ってもらうくらいだった。
でも彼女は不服そうだった。

「いまさら何いってんの?
おかしいよ、まあちゃん」

おかしい、といわれて
僕は指先が冷たくなる。

「ごめん
今日はかえるよ。」

僕が玄関ドアをかけようとしたそのとき
美紀ちゃんがあっと声を出した。
急にドアが開いて
僕の前に人影が立ったんだ。

「おにいちゃん、
おかえり。」

僕は顔をあげることも出来ず
その人影が誰なのかをとても自分で確認することが出来なかった。

「・・・いらっしゃい」

それはいつもの優しい「お兄ちゃん」の声だった。
だから僕は「安心」して
普通に挨拶をするべきだと思った。
そして彼の横をすり抜けて
自分の部屋に帰って
鍵をかければすむことだった。
だけど
僕の体は予想以上に僕を裏切る。
彼のシューズを確認しただけで
僕の思考回路が動かなくなり
僕の頭が白くなった。

「もう帰るの?
ゆっくりしていくといいのに。」
「そうでしょう、
お兄ちゃん。」

美紀ちゃんが僕の手を取ろうとした。

「やめてよっ!」

僕は
彼女の手を跳ね除けてしまった。
美紀ちゃんはまん丸な目で僕を見た。
僕の顔がどんどん熱くなっていく。

「・・・あ、ごめん・・・」

それが精一杯だった。

僕はもうその場に立っていられなくて外に飛び出した。

「あ、まあちゃん」
「僕が見てこよう。
美紀はここにいなさい。」

僕の後ろで絶望的な会話が聞こえた。



僕は部屋に飛び込んだ。
だけど圭吾ちゃんもドアに手をかけた。
僕は扉を閉めようとするんだけど
圭吾ちゃんは片足をドアの隙間に差し込んでいた。
ドアチェーンがすごくいやな音を立てる。

「やめてよ
やめてよ、圭吾ちゃん。」

小さい声だけど
僕は何度も何度も繰り返した。

「とにかくここをあけろ。
美紀が見ている。」

美紀ちゃん、といわれて僕は扉をひく力を抜いた。



バタン、と音がして
圭吾ちゃんはドアを閉めた。
がちゃりとロックをかける音がした。
僕は慌てて鍵をはずそうとした。
すると圭吾ちゃんは僕の体に覆い被さり
僕の手首を力いっぱいひねった。
声をあげそうになった僕の腹を
圭吾ちゃんが靴のままで蹴った。
何度も何度も。


痛いよ
痛いよ。
痛いよ、圭吾ちゃ・・・。


キッチンに体を小さくしてころがっている僕の
体にまたがって
圭吾ちゃんはニコニコしている。
僕は間違いなく痛い目にあってるんだけど
圭吾ちゃんの顔をみてると
僕は夢をみているのかもと思う。
もちろんそんなことはないのは
僕の体が一番よく知ってるのに。

本当に痛いとき
涙なんか出ないんだ。


「バカだな。
美紀を心配させたいのか。」
「そんなこと・・・知るもんか。
バカは・・・圭吾ちゃんだ。」
「おまえなあ・・・」
「・・・」
「そんなにびくびくするから
余計からかわれるんだよ。」
「・・・
僕をからかってるつもりなの?」
「そうさ。
こんなの冗談に決まってるだろ?
お前の考えすぎだよ。」



それらの始まりはもう1年近く前のことなのに
いまだにはっきり
生々しく思い出せる。
殴られたその瞬間や
ふみつけられた靴の感触は
思い出したくないのに
僕の記憶にしがみついて僕の気持ちをぐさぐさと揺さぶる。

あの時。
僕は大きな間違いを犯した。

僕は泣き叫ぶべきだったんだ。

あの時点で美紀ちゃんにばれていたら。
僕は今ほど腐っていなかった。
あの段階では
僕は被害者で
僕に落ち度は無かったんだから。

「とにかくここをあけろ。
美紀が見ている。」

美紀ちゃん、といわれて僕は扉をひく力を抜いた。
でもドアをあけるべきじゃなかったんだ。




その後。
圭吾ちゃんは
僕にあうたびに暴力をふるったわけじゃない。
ほとんどの圭吾ちゃんは
僕にとってもやっぱり優しいお兄さんだったんだ。
漫画を貸してくれたり
お菓子を分けてくれたり
いっしょに買い物に連れてってくれる
美紀ちゃんのお兄さんに変わりなかった。

そして僕も
いつか学んでいった。
「それ」さえがまんすれば
みんながうまくいくんだと。

僕は
一人になるのが怖かったんだ。

美紀ちゃんがいない日に
僕の部屋に入ってくる圭吾ちゃん。
彼を迎えるのは怖かった。
でも僕に何もしないことのほうが多くて
一緒にビデオを見たりするだけのほうが多くて
普通に話したり
笑ったりする。
そんな時僕は
圭吾ちゃんといる時間を失うのはイヤだと思う。
あれはもう終わったことで
今勉強を教えてくれる圭吾ちゃんは
もう僕を殴らないのだろうと勝手に思ってしまう。


だけどその期待は何度も裏切られるんだ。


「脱ぎなよ。」

突然彼は僕に命令するんだ。
僕は唇が引っ付いて
声もでなくなるんだけど
仕方が無い、と思ってしまう。
何が仕方が無いのかわからないんだけど
そう思うことで
諦めた。

僕に後ろから抱き付いて
体を押し付けてくる圭吾ちゃんは
怖い。
抵抗すればまた殴られて
ますます時間も長くなるから
僕はいつしか我慢するようになっていた。
嫌がれば嫌がるほど「遊び」はしつこくなるから
僕は黙って我慢した。

これはたいしたことじゃない
たいしたことじゃないんだと。
僕は自分で繰り返す。

髪の毛をわしづかみにされて
指の跡が残るくらい肩を床に押し付けられても
僕はその痛みにに気がつかないようにした。
彼の手が僕に伸びて
僕の嫌がる所を乱暴に触りだしても
僕はこれはたぶん夢なんだなあと考えた。
夢ならいつか覚めるもの。

そう思うことで
僕は痛みから逃げたんだ。

辛さや
苦しみは
僕の心が生んだもの。
僕が感じなければ
痛くない。

感じなければいいんだ・・・・。





そうして
いつしか僕は泣かなくなった。




そこまで一気に思い出して
僕の意識は今の時間に帰ってきた。

にぎやかな店内に確かに僕は存在している。

僕は視線を落とす。
僕の手のひらの小さな傷は
昨日圭吾ちゃんがカッターナイフで切ってみたもの。
突然僕の手をとった彼は
何も言わずにいきなり僕の手のひらに
刃を突き刺した。
これもたいしたことじゃないんだけど。

まだ残るかすかな痛み。
そのうずく感触が
僕が今生きているという証拠だ。

傷つけられた痛みで
生きている実感を感じる僕。

痛みを無視することで
生きていける僕。
どっちが
本物の僕なの?




店内は学生風の人間が増えていて
みんな無駄にお金を投入する。
ゲームなんてプログラムでコントロールされているんだ。
勝てないように仕組まれているのに
偽者のコインを集めるために
多くの人が小銭をつぎ込む。
コインを集めれば
なんとなく楽しそうな時間が長く続くような気がするから
すごく真剣な表情なんだけど
所詮偽物だし
終わってみれば何も残らなくって時間と小銭を失ってしまうだけだ。

でも僕にそんなこという資格はない。

僕だって「無駄」に生きている。






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