卒業式の日に
僕は空色のシャツを着ていった。
卒業式の朝。
その日はすごくいい天気で
風も無く
空を見上げると雲が光って見えた。
僕は窓を閉めると紙袋からシャツを出す。
昨日なぎささんが見立ててくれたきれいなシャツを。
「あら、お母さんの買ったシャツは?」
「え、ああ・・・」
「あれすごくいいシルクなのに。」
「ごめんね、僕
こっちを着たくって。」
僕がそのシャツを見せると母親は浮かない顔をした。
「やあねえ、自分で買ったの?
・・・いいけど・・・
その生地じゃスーツに負けちゃうわ。」
「いいんだ。」
僕は内心どきどきしていた。
僕が自分の好みを母親にいったのは
たぶん初めてのことだから。
今までは、本当の事を言えば
服なんかどうでもよかったんだ。
だから手の届く所にあるものを着ていただけで。
母親はあまり深くは聞かなかった。
それよりも母親は新品の光る生地のワンピースを着て
化粧をするほうが忙しいらしい。
年齢よりもかなり若く見える僕の母親は
髪がまっすぐに長くて
化粧をしなくても肌がきれいで
本当にまだ若いのだ。
僕は母親が19のときに生まれた子供だから
まだ30になったばかりなんだけど
結婚してるようには見えない。
今でも連れ立って歩けば親子と見えないと思う。
母親はそれが自慢らしくて
僕をまるで友達みたいにつれ回して歩いていた。
景気が悪くなって儲けの無い仕事が増えてからは
そういうことも無くなったけど。
「せっかくあたしとおそろいだったのになあ・・・。」
母親のワンピースと僕のスーツの生地は同じだ。
でも僕はそれに気がつかないフリをして
黙ってとなりの部屋で身支度を整えた。
母親のつぶやきが何度か聞こえたけど
僕はそれを聞かないようにした。
時間が迫り僕らは靴をはく。
母親が玄関の鍵をかけているとがちゃりと隣のドアが開いた。
「おはようございます。」
「おはとう、まあちゃん!」
声をかけてきたのはいつものように美紀ちゃんのお母さんのほうからだった。
「美紀ちゃん、おばさん、おはようございます。」
「うわぁ、今日のシャツはめずらしい色だね、まあちゃん。」
「・・・おかしい?」
「ううん、すごくかっこいいよ!」
おばさんが僕の母親に声をかけた。
「青山さん、長いこと美紀がおせわになって。
まあちゃん、中学でも美紀と遊んでね。」
「こちらこそ。」
美紀ちゃんは紺のワンピースを着ていて
普段よりかなりおとなしそうに見えた。
「先に行こうか」
美紀ちゃんが僕の手を取る。
母親達はまだ何か話していたけど僕らは先に行くことにした。
今日も美紀ちゃんはとても元気だ。
だけど階段を下りて2,3歩すすんだ所で
僕は思わず足をとめた。
目の前に圭吾ちゃんが立っていた。
黒いパンツにグレーのTシャツ姿だった。
圭吾ちゃんも高校受験だった。
とても忙しくて僕らは最近ずっとあっていなかった。
右手にコンビニの袋を下げた圭吾ちゃんは黙って立っている。
僕は何もいえなかった。
ただだまって立っていた。
しばらくすると彼のほうが声をかけてきた。
「まあちゃん、いまから学校いくの?」
「・・・うん。」
「卒業おめでとう。」
「・・・ありがとう。」
それは僕の知っている
優しい圭吾ちゃんだった。
僕に漫画を貸してくれたり
僕にお菓子を分けてくれた
優しい圭吾ちゃんだった。
圭吾ちゃんは僕から目をそらすと
今度は美紀ちゃんを見た。
「美紀。」
「なあに」
「帰りにうまいもん買ってきてくれ。」
ただそれだけの会話だった。
朝から週刊誌を買いにいっていたという圭吾ちゃんは音を立てながら
階段を上がっていく。
僕は心臓をどきどきさせながらその姿を見送った。
圭吾ちゃんは肩幅が広い。
背が高くって首が長い。
手のひらは堅くって指は太い。
圭吾ちゃんは僕の体に触れなかった。
僕は彼の手を見ていたけど
彼の手は僕には触れなかった。
僕らの親とすれ違うときに圭吾ちゃんはちらりとこちらを振り返った。
茶色い瞳が僕を見た。
僕の心に違和感が残る。
彼は僕には触れなかったのに
僕の背中に彼の手のひらの感触が走る。
僕は圭吾ちゃんの体温を知っている。
さわらなくても彼の腕の温かさを思い出せる。
彼のセーターにしみこんだ
青い草みたいな
圭吾ちゃんの体臭を僕は知っている。
彼から受けた傷の痛み。
それは突然僕の記憶によみがえり
僕は息が止まりそうななる。
だけど僕はいっしょに思い出す。
彼に抱かれたときの彼の皮膚の温かさを。
僕は同時にそれらを思い出し
僕の気持ちはもうぼろぼろになる。
憎めるなら憎んでしまいたい。
殺したいほど嫌いになりたい。
僕にやったのと同じ事を
僕が圭吾ちゃんに体に
刻み付けてやりたいんだ・・・。
そのほうが
よっぽど楽だ。
僕をカッターナイフできりつけたように
圭吾ちゃんの体を
僕が切り刻んでやりたい。
彼が僕で遊んだように
彼の両腕を縛りあげて
足で思い切り蹴り飛ばしてやりたい。
棒かなんかでめちゃくちゃに殴りつけて
いっそ殺してしまえばきっと僕は楽になる。
警察なんか怖くない。
人殺しになってもかまわない。
僕は
それだけの事をされてきたんだ。
僕はもう
「普通」じゃないんだから。
圭吾ちゃんが
僕を「殺した」様なものなんだ。
だけど。
彼は美紀ちゃんのお兄さんで
僕の家のお隣さんだ。
圭吾ちゃん「だけ」を
この世界から捨てることなんか
出来やしない。
それに僕は
本当は知っている。
知ってるんだ。
彼になぐられたり
無理に脱がされたり
キスされるのは
死ぬほど辛いんだけど
本当は
本当は
抱きしめられるのは
嫌じゃないんだ。
僕は器用な子供で
どんな精神状態でも
「普通」に顔を作ることが出来る。
僕の頭は混乱していたけれど
僕は「普通」に会話ができる。
僕は「普通」に美紀ちゃんや親と一緒に登校した。
泣いたり
叫んだり出来たらいいなあとはおもうけど
僕の気持ちは誰にもいえない。
僕の気持ちが理解できるのは
この世でたった一人
この僕だけだ。
だから・・・・。
卒業式はつまらなくて
僕には何の感慨も残らなかったけど
もう小学校にこなくていいんだという喜びはあった。
僕は何度かなぎささんの席のほうを見たけれど
小さいなぎささんの姿はよく見えなくて
僕は少しがっかりした。
それでも帰りには彼女は校門の所に立っていた。
彼女は僕のシャツを指差してにっこり微笑んだ。
僕も頬を赤くした。
僕らには会話が無かったけれど
僕はそれだけで十分だった。
なぎささんはお母さんを待っているらしく
僕らはほとんどしゃべらずに別れた。
あれから僕らは
また二人で会う約束をしていたんだ。
校門を出てしばらくして
隣にいた美紀ちゃんが小さな声で僕に言った。
「昨日なぎさちゃんとデートしてたんだって?」
「え、どうしてそれを・・・。」
美紀ちゃんはにっこり微笑んだ。
「昨日、お兄ちゃんが見てたんだって。」